国書四通/咸豊五年十月五日・七日・八日・十日付
上の国書四通は、琉仏条約の協議の場において、琉球王府からフランス側に手渡された上申書の原本である。国書の受取人は、一般に国家元首等、国の代表者である。ただ、代表者が遠路で行き来できない場合には、名代が立てられる。ゲランに冠せられた職名「欽使全権大臣」(漢訳案・条約正文)がそれで、皇帝ナポレオン三世に代わって、ゲランが受け取るという形式である。目の前にいるゲランが交渉の直接相手ではあるが、最終的に判断を下すのは皇帝である。
現場と中央という権力の分裂は、七日と十日付の国書に端的に表れている。王府は国書を通して、ゲランに条約の見直しを訴える一方で、国書を皇帝に〈転奏〉することを願う。「皇命ゆえ一条たりとも改変せず」というゲランの論法を逆手に取った直訴と言えよう。
交渉は、旧暦一八五五(咸豊五・安政二)年十月一日、提督ゲランからの「通商章程十条」の開示に始まる。琉球は前年、ペリーとの間に琉米条約を結んでいた。
琉球は当時中国と日本に両属し、両国に朝貢の礼を取っていたが、宗主国のひとつである中国は、一八四〇年、アヘン戦争でイギリスに大敗し、今ひとつの宗主国である日本も、琉球に先立ちペリーと和親条約を結ぶ等、国際情勢は大きく動き始めていた。そうした最中、アメリカが求めた項目は、「薪水の提供・漂流民の救助」など、〈通商〉よりも〈和親〉に重点があり、王府としても拒み切れない内容であった。
かたや、フランスは通商に狙いを定め、「領事館の設置や買地留人」など、開国に向けた道程を提示してきた。両宗主国に相談なく開国に踏み切れば、朝貢体制は瓦解する。琉球王は皇帝と将軍からの認可があって成立する称号である。朝貢体制のないところ、王も王国も成り立たない。琉球が置かれたそうした状況を具申するが、ゲランはこれを一蹴する。
十月七日の書面では、道光二十六(一八四六・弘化三)年の運天交渉以来の交渉記録を持ち出し、小国である琉球にとって交易は利がなく、大国の要望に応える力がないことを説明する。唯一ゲランは運天交渉にも列席した人物である。「小国は土地はやせ物産も少なく、自国用の品だけで手一杯で、交易する余力がない」ことは、先の交渉で了解済みではないのかと問いただすが、「これらの条項は皇命であり、一条も改変を認めない」と、提督の返答はにべもない。
十月八日には、再び琉球の両属関係に言及する。十七世紀初頭、薩摩藩は琉球に武力侵攻し、時の尚寧王を拉致し去った。その戦後処理として始まったのが、江戸上りと言われる琉球使節である。幕府は出島によるオランダ・中国以外の交易を認めない立場であったので、琉球貿易は薩摩が独占した。
文中の「度佳頼・度佳刺(トカラ)」が薩摩の謂いで、琉日・琉薩間にできた新たな朝貢関係を、中国に知られぬよう、隠れ蓑に使用された。しかし、ゲランも運天交渉の決裂から経験知を得ていた。即ち、琉球の「宗主国と相談したい」は、時間稼ぎに過ぎないと。全くもって取りつく島もない。
十月十日、提督では埒が明かないと踏んだ王府は、ナポレオン皇帝に直訴を願うが、激昂した提督が抜刀に及び、止むなくフランス案を内諾、十四日、正式文書へ調印に及ぶ。