「これらの条項は皇命であり、一条も改変を認めない」とのゲランの強い言葉に表れているように、琉仏条約は、フランスに強引に押しつけられたというのが、これまでの定説であった。しかし、王府は独自の〈琉球案〉(「卑職等所擬約条」)を提出し、フランス皇帝に転奏することを求めるなど、死活問題たりうる条項の改定に努めたことが、この度の国書により判明した。琉球案は今日伝存が確認されておらず、その中身を知ることはできないが、漢訳案と条約正文を比較することで、琉球とフランスの対立点やその解決策が推測可能となった。その意義は計り知れない。
王府としては、無理に押しつけられたという意識は強く働いたであろうし、両宗主国に対しては、責任回避の観点からも、そうした姿勢を取らざるを得なかったであろう。それでも、最終的には国の将来を〈開国〉に託したのである。外交方針さえ決められない国に主権はなく、植民地にすべしというのが、当時欧米に見られた国際意識であった。それゆえ、中国もふくめ、あらゆる後進国が武力により欧米の植民地とされるなか、日本と琉球のみが話し合いで列強と渡り合い、不平等条項を有しながらも、二国間条約を結び得たのである。東西交渉史の奇蹟と評しても過言はなかろう。